西洋史上もっとも偉大な天才の一人、ベートーヴェン。彼の生誕250周年が、2020年に世界中で祝されます。今回のラ・フォル・ジュルネ(以下、LFJ)では、ベートーヴェンの有名な傑作の数々はもちろんのこと、通常のコンサートでは滅多に聴くことのできない「レア」な楽曲や、彼自身が手がけた編曲作品、そして同時代や後生の音楽家たちに与えてきた影響にも光を当て、彼らによるベートーヴェン楽曲の編曲作品も選りすぐって皆さまにお聴きいただきます。
また、20世紀以降もベートーヴェンにオマージュを捧げる新作が次々に生まれていますが、それらの作品のほか、今回のLFJで初めて演奏される魅惑的なオリジナル・プロジェクトの数々も用意して、皆さまをお待ちしています。
ベートーヴェンの音楽、そして彼からインスピレーションを受けた多彩な「音楽家たち」が一堂に会するLFJが、皆さまに沢山の発見をお届けすることを願っています。
ルネ・マルタン
LFJアーティスティック・ディレクター
年 | ベートーヴェンの主な作曲時期・出来事 | 主な世界史・日本史 |
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1770年 12月16日ごろ (0歳) |
ドイツの西に位置するボンに生まれる。 父は宮廷に仕えるテノール歌手でアルコール依存症であったヨーハン・ヴァン・ベートーヴェン、母は裕福とはいえない一家の精神的な支えとなったマリア・マグダレーナであった。 |
アメリカでボストン虐殺事件が起きる。 |
1774年 (4歳) |
父よりピアノを教わり始める。 |
前野良沢・杉田玄白らが日本最初の翻訳解剖書である『解体新書』を刊行する。 |
1775年 |
アメリカ独立戦争が始まる。(〜1783) |
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1778年 (8歳) |
ボンより程近いケルンで初めて演奏会を開いた。 |
第2回大陸会議でアメリカ独立宣言が採択される。 平賀源内がエレキテルを完成する。 |
1782年 (12歳) |
パガニーニが生まれる。 |
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クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェより正式な音楽教育を受ける。 |
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1783年 |
パリ条約が結ばれ、イギリスがアメリカの独立を承認する。 日本では天明の飢饉が起こった。 |
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1787年 (17歳) |
ウィーン旅行に出かけ、モーツァルトと出会う。
7月17日 |
アメリカ合衆国憲法が制定される。 徳川家斉のもと、白河藩主松平定信が寛政の改革を行う。 |
1789年 |
ワシントンがアメリカの初代大統領に就任する。 フランス革命が起こる。 |
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1791年 |
チェルニーが生まれる |
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1792年 (22歳) |
ボンを訪れたハイドンと出会い、それからウィーンに移り住みハイドンに教えを受ける。 ウィーンでの彼は、その抜きん出た才能をいかんなく発揮し、貴族社会に多くのパトロン、金銭的な支援者を見出していった。 12月 父ヨーハン亡くなる。 |
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1793年 |
フランスでマリー・アントワネットが処刑される。 |
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1794年 (24歳) |
ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調 Op.2-1 を作曲。 |
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1797年 |
シューベルトが生まれる。 |
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1799年 (29歳) |
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 Op.13 「悲愴」を作曲。 |
オランダが東インド会社を解散。 |
1800年 (30歳) |
交響曲第1番ハ長調 Op.21 を作曲。 |
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1801年 (31歳) |
ピアノ・ソナタ 嬰ハ短調 Op.27-2 「月光」を作曲。ピアノを教えていた伯爵令嬢(ジュリエッタ・グイチャルディ)に捧げた。 |
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1802年 (32歳) |
日ごとに悪化する難聴への絶望などを記した『ハイリゲンシュタットの遺書』を弟のヨハンと甥のカールに送る。 |
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1804年 (34歳) |
交響曲第3番変ホ長調 Op.55 「英雄」を作曲。 ナポレオンの偉業をきっかけとした交響曲「英雄」が完成。(この年ナポレオンが皇帝の座に就く) 当時の交響曲では考えられない50分近い長さであった。 |
ナポレオンが皇帝に即位し、フランス第一帝政が始まる。 |
1805年 (35歳) |
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 Op.57 「熱情」を作曲。 「熱情」はハンブルクの出版社が出版の際に名付けたもので、「交響曲第5番(運命)」で使われている「運命の動機」は「熱情」の第1楽章でも使われている。 |
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1806年 (36歳) |
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 を作曲。 「ヴァイオリン協奏曲の王者」と呼ばれ、メンデルスゾーン・ブラームスの作品と共に「三大ヴァイオリン協奏曲」とも呼ばれる。 |
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1808年 (38歳) |
交響曲第5番ハ短調 Op.67 「運命」を作曲。 この頃のベートーヴェンの聴覚はかなり悪化しており、会話もままならぬ状態だったそう。 交響曲第6番ヘ長調 Op.68 「田園」を作曲。 ベートーヴェンによって標題がつけられた唯一の交響曲である。 |
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1809年 (39歳) |
ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 作品73「皇帝」を作曲。 「皇帝」という名称は出版社が付けたものであり、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」、グリーグの「ピアノ協奏曲」とともに「三大ピアノ協奏曲」と呼ばれている。 ハイドン死去。 |
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1810年 (40歳) |
バガテル「エリーゼのために」イ短調 WoO.59 を作曲。 ベートーヴェンの作品の中でも「最も知名度の高い作品」の一つとして挙げられている。 |
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1812年 (42歳) |
交響曲第7番イ長調 Op.92 を作曲。 交響曲第8番ヘ長調 Op.93 を作曲。 |
ナポレオンがロシア遠征を行うが、失敗に終わる。 アメリカ=イギリス(米英)戦争が始まる。(〜1814) |
1814年 |
スティーブンソンが蒸気機関車を発明する。 ナポレオンが失脚し、ルイ18世が即位する。 |
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1820年 (50歳) |
ピアノ・ソナタ第30番ホ長調 Op.109を作曲。 |
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1822年 (52歳) |
ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 Op.110を作曲。 ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111を作曲。 |
伊能忠敬の『大日本沿海実測全図』が完成し、幕府に献上される。 |
1823年 (53歳) |
ミサ・ソレムニス ニ長調 Op.123を作曲。 |
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1824年 5月7日 (53歳) |
交響曲第9番ニ短調 Op.125「合唱付き」を作曲。 交響曲で効果的に声楽を使った初めての作品であり、欧州連合では統一性を象徴するものとして採択されている。 「第2次世界大戦終戦後のバイロイト音楽祭」や「ベルリンの壁崩壊の記念コンサート」でも演奏された。 |
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1826年 (56歳) |
弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 Op.131を作曲。 ベートーヴェンが亡くなる前年の作品で、最晩年の傑作の一つとして知られている。 ベートーヴェンにとってこの作品は自信作だったようで、友人に「新しい作曲法だ、神に感謝しないと。以前に比べて、まだ創造力は衰えていないよ。」と語ったそう。 シューベルトもこの作品を聴いて、「この後でわれわれに何が書けるというのだ?」と述べたと伝えられている。 |
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1827年 3月26日 17時45分 (56歳) |
ベートーヴェン死去 |
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1828年 |
シューベルト死去 |
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1829年 |
葛飾北斎が『富嶽三十六景』を完成する。 |
ベートーヴェンはウィーンに住んでいた35年間で実に79回も引越しをしていた。計算すると半年に一回以上のペースである。
ベートーヴェンはコーヒーを毎日飲んでおり、コーヒーの粒を必ず60粒数えて淹れる程のコーヒー好きだった。
1816年にメトロノームが発売されると、ベートーヴェンは直ぐに気に入り、楽譜にテンポ設定を書き入れるようになった。音楽家で最初にメトロノームを使用したのはベートーヴェンといわれている。
「エリーゼのために」の「エリーゼ」とはテレーゼという女性なのかエリザベートという女性なのか現在も判明には至っていない。
ベートーヴェンの葬儀には2万人にもなるウィーンの庶民達が彼の墓まで列を作り、彼を見送ったといわれている。